肉体とアイドル(またはジャニーズ初現場についての話)

最近の日課は『ぁまのじゃく』を踊るHey!Say!7を脳内に描きながら出勤すること。 

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斯様に節操というものを持ち合わせていない類のファンによるブログです(いつか来たるべき7コンへのシミュレーションの一環)。

 

2017年12月8日京セラドーム、初めてジャニーズの現場すなわち戦場に馳せ参じました。その名も『Hey!Say!JUMP I/Oth Anniversary Tour 2017-2018』。

 

わたしは、自分がその戦いに勝利したのか、あるいは敗北したのか、それともそのどちらでもなかったのか、それすらもわからないのです。

中島裕翔りんの身体性――裕翔りんが人間の肉体を所持しているのだという気づきは、わたしの意識を混濁させるのに充分すぎるほど瞠目すべき事実でした。

 

裕翔りんのことは、あらゆる美しい事物の結晶として、慕わしくお見上げしてきました。広義の天使とも狭義の天使とも、あるいはやんごとなき御身分のおかた、おとぎ話の妖精さん、うつろいゆく四季、まばゆい宝石。

とくに裕翔りんというアイドルの鑑賞法を宗教画の構造と重ねあわせる習性が身についてしまってからというもの、我ながらどうしようもないと呆れかえるほどには始末に負えません。中島裕翔というひとりの人間を神さまだと仮定するならば、アイドルとしての裕翔りんは聖典(聖書)であり、そしてさまざまなメディアを介してわたしたちの目に届く裕翔りんは、すなわち聖典の世界が描かれた宗教画なのです(宗教音楽や宗教文学といったものも該当するでしょうが、学が及んでいないゆえ悪しからず)。

宗教的信仰心のまるでないわたしは、わたしが愛しているものは中島裕翔という人間そのものではなく、裕翔りんのアイドルとしての在り方でもなく、ただただ裕翔りんというアイドルを写しとったイコン(聖像)にすぎないのだと、その二重のフィルターを常に意識しているつもりです。イコンはときに神さまそのもののように感じられることもあります(得てしてそれが宗教画家の主目的なのです)から、ついついその境界を踏んでしまいがちなことはどうか大目に見ていただきたいのですが(いけしゃあしゃあと!)。それでも努めて身をわきまえ、裕翔りんのイコンへのみ賛辞を捧げて参りました。

だからこそ、納税義務として支払い続けることになんの憤りもなかったファンクラブ会費が突如として幸運を呼び寄せたとき、わたしは大きなよろこびのあと、しんしんと冷たい不安におそわれました。コンサートとは、つまりメディアを媒介としない生身のアイドルの目撃、すなわち聖典との出あいであろうと考えたからです。はじめてじかに聖典にふれたとき、わたしは新たな境地(たとえば、聖典への信仰)にめざめてしまうのか、あるいはもっと悪いことに、裕翔りんへの祈りを失ってしまうこともあるかもしれないのですから。 

何を隠そうこのわたくし、ジャニーズを好きになってから今回初めてのコンサートに赴くまで、まるまる3年もかかっているのです。3年!3年もあれば、スマイレージアンジュルムになるし、なにきんは解体するし、こぶしファクトリーつばきファクトリーカントリー・ガールズはデビューするし、Berryz工房は解散するし、SMAPは解散するし、°C-uteは解散するし、カントリー・ガールズは解体しかけるし、Jrは星の数ほど入所するし、マリウス葉さんはタケノコのように背が伸びるし、ジャニーズは誰もデビューしないし(!)、とにかく世紀末めいたアイドル界に怯えるあまり3年も引きこもっていたこじらせ野郎にとって、未知とは畏怖であり、変化とは恐怖なのです。

 わたしはいまとなっては笑えるほど筋違いな努力でありましたが、ともかくそれらに打ち勝つべくコンサートに備えました。例によって「愛するものに相応しい女であらねばならない」というオタクの掟にしたがい、目一杯の武装をしてその日に臨みました。取り敢えず安物の双眼鏡を購入しておき、お気に入りのネックレスにシャネルの口紅を纏い、前日のプレ販売で購入していたペンライトとうちわをずだ袋でカモフラージュしました。わたしはわたしの行いうるかぎりの最善を尽くし、気が遠くなるような数のオタクどもに呑まれ、狭苦しい座席にキソクタダシクきっちりと詰め込まれました。もっともそんな急ごしらえの装備など、生身のアイドルを前にしてはむなしいことに過ぎませんでしたが。

 

あまり性能の良くない双眼鏡で目的のかれを捉えたとき、わたしはたちまち知ってしまったのです。裕翔りんに肉体があることを、その肉体が生命を宿しているのだということを。否応無くその眼前の事実を、いままでずっと見て見ぬふりをしてきたその不可逆の事実を、理解させられてしまったのです。裕翔りんは、生きていました。24歳の男性がそこに在りました。聖典(神の神たる所以を述べたもの)を読むつもりで臨んだ場で、思いがけなく出あってしまった身体性へのショックゆえか、それとももともとの意識薄弱のせいか、どうもコンサートの記憶があいまいすぎていて、たった2日前のできごととは思えないほどです。

その霞のような時空間を内在化しようと矮小な頭を捻り、どうにか浮かびあがった最良の解は、「なるほどコンサートとはすなわち聖体拝領のための場ではないか。」という、良い歳をした大人の結論にしては、ほとんど悪ふざけのような厚顔無恥の思いつきでした。聖体拝領というのはキリスト教のミサで行われる儀式であり、贖い主イエス=キリストの肉たるパンと、血たるワインを信徒が口にすることによって、彼の犠牲と栄光に感謝するというものです(かつてほんのちょっと齧っただけの知識を漫然と披露)。

正しくキリスト教の信徒であられるかたにとっては噴飯もののこじつけで恐縮ですが、わたしがHey!Say!JUMPのコンサートにおいて行っていたこととは、まさしくこの聖体拝領ではありませんか!歌い、踊り、ドラムを叩き、ファンサをし、メンバーとじゃれ合い、惜しみなく笑顔をふりまく裕翔りんを、野鳥の会ごっこで追いかけ回すことは、裕翔りんの肉体を食らうことと同等です。そしてその行為によって、わたしは中島裕翔りんというアイドルの秘跡を与えられ、その輝きと翳りを尊び、また同時に、アイドルオタクの罪悪をあらためて心に刻むのです。贖い主たるアイドルがその肉体と生命を尽くして信徒たるオタクどもの罪を赦し、それぞれの人生を祝福してくれていることに感謝する儀式、それこそがアイドルのコンサートの本質であったのです。

さて、聖体拝領という儀式と、宗教画の鑑賞のあいだには、一見大きな隔たりがあるように思われますが、少なくともわたしの中ではそれら両者がむしろ同質なものであると、横暴にも結論づけないではいられません。繰り返すとわたしは信仰心がかけらもないためにこのようなことが言えるのですが、アイドルにとっては肉体もまたメディアにちがいないのです。肉体=聖体を媒介とした裕翔りんのイコンを目撃するという意味で、コンサートも茶の間活動もたいした差異はなく(むろん現場がオタクにとって特別な意義を持っていることは否定できませんが)、すべては引きこもりの茶の間がムクムクと膨らませていた誇大妄想にすぎませんでした。なぜなら、裕翔りんの肉体はほとばしるほど鮮烈に、くるおしいほど静謐に、このうえなく美しかったからです。裕翔りんの肉体は、わたしが自宅に居ながらにして幾度も出あってきた裕翔りんのままに、高雅で、清廉で、可憐で、崇高でありました。裕翔りんはその美しさをもってして、欲望ひしめくオタクどもの合間をなんども愛らしく軽やかに通り過ぎました。

ですから、これほどショッキングな3時間を経て、裕翔りんの身体性を認めてなお、わたしはいままでと同じ祈りをこれからも繰り返すことができます。それは(去年のお誕生日のブログで変化を予告したのにもかかわらず)、裕翔りんのことを好きになったときからずっと変わらない祈りです。裕翔りんがますます美しく、慕わしくなりなさることを、より多くの人からの愛を得、より深い優しさに満たされることを。神さまでもなく聖典でもなく、肉体を含めたあらゆるメディアに表出する裕翔りんの御姿、そのものに祈ります。

 

――まったく我ながら論理が破綻しているどころか、一体なにを意図して言おうとしているのか見失っているこの恥知らずぶり、ともかく正気でないことだけは確かなようですが。そのわけもわからぬ乱痴気騒ぎがまた倒錯的に楽しいので、結局のところ、わたしもジャニーズ現場の魔力に取り憑かれてしまった、それだけのことなのです。高みの見物を決め込んでいた茶の間が、事実と結論を繋ぐだけの長大な屁理屈をこねて、気の遠くなるような数のオタクどもの一員として迎え入れられるべき準備を整えた、ただそれだけのことだったのです。ようするに「ぶっちゃけ有頂天な日々送ってる」し、「時が経っても決して忘れないようにこの瞳でスクリーンショットしたい」し、しまいには「君にやっとたどり着いたスウィートアンサー(吐息多め)」というわけです。

あとは、これがきわめて困難な課題であるのですが、何度コンサートを見に行っても、かれのイコンをかれ自身だと見誤らないよう、オタクとしての研鑽を積まなければなりません。いやあるいはその前に、当選を呼び寄せるオタクとしての強運を身につけるべきなのでしょうか。オタク道とは果てなくままならぬものです。